妙経寺とは?
妙経寺(みょうきょうじ)は、日蓮宗(旧顕本法華宗)の寺院です。
大乗院日浄上人によって神奈川県足柄上郡大井町(金子村)に開山されました。現在は、神奈川県小田原市本町4丁目にあります。
開山当時は、真言宗寺院でしたが、永正(1504~1521)のはじめ、七里法華開教の祖、京都妙満寺十六世日泰が宗祖旧跡拝礼のため関本村に一泊しましたことにより、真言宗の僧が名を「日浄」〔永正16年(1519)9月8日寂〕と改め、一宇建立のため北条早雲に出願、許され「青陽山大乗院妙経寺」となりました。
明和8年(1771)火災で全焼、仮堂が再建されるが安永5年(1776)再び焼失した。大正12年関東大震災(1923)でまたも被災した。関東大震災当時、妙経寺で晩年を過ごしていた北洋の開拓者「郡司 成忠(小説家の幸田露伴は弟、初代南極探検隊隊長の白瀬矗は郡司の結成した開拓事業団「報效義会」の会員)墓所は池上本門寺」の手記にも被災したことが記されています。その後現在の伽藍を整備しました。
〔宗派〕日蓮宗(旧顕本法華宗、什師門流・禹師法縁)
〔名称〕青陽山 大乗院 妙経寺(せいようざんだいじょういんみょうきょうじ)
〔開山〕文亀(1501~1504)年間
1枚目は現在の妙経寺、2枚目は戦前の妙経寺(葬儀の様子)
日蓮聖人とは?
日蓮宗の宗祖、日蓮聖人は、貞応元年(122)2月16日千葉県安房郡小湊で誕生しました。
12歳の時に、父母の元を離れ清澄寺で仏道修行に入り、16歳で出家しました。出家後は清澄寺をはじめ、鎌倉、比叡山などで仏教を学び38歳で「日蓮宗」を開きました。
日蓮聖人は、相次ぐ自然災害や争乱などで混乱を極めた鎌倉時代に生き、幾多の困難に見舞われながらも、強い信念のもと、お釈迦さまの教えを日本の地でひろめ人々の苦しみを取り除き、社会全体が幸せになるように願いました。
一方で、幕府や念仏批判に恨みを持った僧らにより39歳の時に松葉ヶ谷法難に遭い、さらに40歳の時に伊豆法難、43歳の時に小松原法難、50歳の時に龍口法難・佐渡流罪に遭いました。53歳の時に佐渡流罪より赦免され鎌倉へ帰還し、その後、日蓮聖人は山梨県の身延山に入山し、61歳で生涯を閉じられました。日蓮聖人の教えは、来世ではなく”今を生きる”ことの大切さを説き、法華経への信仰にその生涯を捧げました。日蓮聖人が説く、お釈迦さまの功徳が集約された「お題目」の世界は、今もなお多くの人々の心の拠り所となっています。
日什上人とは?
妙経寺は日蓮宗の中でも什師門流の旧顕本法華宗の流れを汲むお寺です。
日什上人(にちじゅうしょうにん・1314~1392)は、正和3(1314)年4月28日、奥州会津郡黒川に出生。父は石塚太郎覺知、母は会津城主葦名四郎盛宗の娘清玉姫で武士の長子として誕生しました。15歳の時両親を亡くされ、19歳の時出家し比叡山横川に入室、38歳の時に比叡山学頭に抜擢され、玄妙能化(師範・教授)として比叡全山に名声を博しました。
58歳の時に故郷会津に帰り、66歳の時、日蓮聖人の「開目抄・如説修行抄」の両部を感得し、「日什(にちじゅう)」と改め、翌67歳の時日蓮宗の千葉下総真間弘法寺に帰伏して、真間能化となりました。72歳の時に玄妙寺を建立、76歳の時に京都室町の妙満寺を建立し日什門流という一派を興し、79歳で生涯を閉じられました。